こんにちは!所属精神科医のT.Sです。
このコラムでは、
私が精神科医として患者さんと接する中で手に入れ、磨き上げてきた様々な武器
つまりは「幸せになるコツ」
を紹介しています。
少しでもみなさんの役に立てるように、という思いで記事を執筆しております。
ぜひ参考にしていただきながら、私と一緒にメンタルトレーニングをしていきましょう!
さて、気づけばもう今年も終わりですね!
歳を重ねるにつれて、時が経つスピードが加速している気がする…本当に早い…
みなさんにとって、2022年はどんな1年でしたか?
打ち立てた目標を達成できた人もいれば、後悔の多い1年になった人もいるでしょう。
個人的に今年は、チワワを家族に迎え、結婚して更に家族も増え、昔からの仲間たちと誕生日ライブを行い…
と、プライベートはかなり充実した1年だったように思います。
ただし本業の方では、まだまだ努力が足りないところが目立つのが悔やまれますね…
これからも日々精進してまいります。
さて、11月はこんなコラムを掲載しました。
「大切な人を亡くした子どものメンタルケア1【“死”の理解を助ける】」
自身が参加した勉強会がたいへん有用なものでしたので、こちらで紹介することにしたのでした。
前回もお伝えしましたが、自分も含め、人はいつか死んでしまいます。
自分にとって大切な人がこの世からいなくなる瞬間は、いつか必ずやってきます。
このコラムを読んでいる方の中にも、この1年で大切な人とお別れをした人もいるのではないでしょうか。
あるいは、そんな悲しみに暮れている人や子どもを前に、どんな言葉をかければよいのか分からなかった、という人もいるかもしれません。
特にそれが子どもの場合、大人と大きく違った反応を見せることがあることから、より一層の注意が必要となります。
前回は以下のようなことをお話しました。
・子どもにとっての「死」と大人の「死」は、実はかなり違う
『人は誰しもが、何らかの死因で死ぬ。死ねば身体の機能は完全に停止し、永遠に戻ることはない』という死の概念を、理解できていない子どもは多い。
・だからこそ、子どもが正しく死を理解できるように、大人のサポートが必要である
たとえば、死は曖昧に伝えず、ありのままに「死」「死んだ」という言葉を使って伝える。
その一環として、できるだけ子どもにも、お葬式や追悼の会に出席する機会を与えるべきである。
そして今回のコラムでは、前回の内容の補足を行います。
また、1つの死の形としての「自殺」にも少しだけ触れてみます。
ちなみに今回も引き続きこちら↓の資料を参考にしておりますので、より詳しいことを知りたい場合は、ぜひご参照ください。
「大切な人を失ったあとに 子どもの悲嘆とケア 子どもを支える親と大人のためのガイドブック」
また、弊社所属カウンセラーの安澤が、関連するテーマでコラムを掲載しております。こちらも合わせて読んでいただけますと幸いです。
【学齢期の子どもの心理:番外編】『対象喪失』と『モーニング』について触れてみる
残された子どもが「罪悪感」を感じる理由
前回の記事において、「死に対する子どもの反応」をいくつか挙げましたが、その中に以下の項目がありました。
◯罪悪感にさいなまれる
◯特定の誰かのせいだと考えてしまう
さて、一旦は死因については据え置きとして、まずは大切な人と死別した幼い子どもが、どうして罪悪感を感じるのかを考えてみます。
幼い子どもたちは、「魔術的思考(マジカルシンキング)」というものをよく使います。
これは一種の妄想のようなものですが、「“自分の行動や思考や願望” と、”何らかの別の事柄” の間に、実際には無いにもかかわらず、因果的な繋がりがあると信じる」というものです。
「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」といった迷信のように、現実的には不合理で関係がないようなことでも、そこに原因と結果という繋がりを見出してしまうことを言います。
つまり幼い子どもたちは、大切な人を亡くしてしまったとき、「自分が何かを言ったり、考えたり、願ったりしたせいで死んでしまったんだ」と考えてしまう可能性があるということです。
大人から見たら不合理な考えであっても、実際そういう子どもは大勢います。
そして、たとえ子どもでなくても魔術的思考に陥りやすい性質の人は少なくありません。
さて、もし子どもがそのようなことを話してきたら、いや、たとえ自分の責任について直接聞いてこなかったとしても、明確にその繋がりを否定してあげてください。
『辛いことが起こると、人は自分が悪かったんだと考えるものだけれど、◯◯が死んでしまったのは君のせいではないんだよ』と、きちんと説明してあげてください。
子どもの苦しみ、大人の苦しみ
では、年齢を重ねると魔術的思考は薄まって楽になっていくのかというと…
それも、素直に YES とは言えません。
人は年齢を重ねるにつれて、より合理的に物事を考えられるようになります。
それはもちろん素晴らしいことなのですが、しかしそれゆえに、
「僕がもっと心配をかけなければ、親が心臓発作で死ぬことなどなかったのでは?」
「私がもっと早く病院に連れて行ってあげていれば、癌も治療できたかもしれないのに…」
といったように、大切な人の死と自分の行動の間に「一見合理的でもっともらしい繋がり」を見つけてしまうのです。
人の死は様々な要因が絡み合った結果なので、決して何か1つの事柄で説明がつくものではなく、誰か一人が全ての責任を負うことなどできません。
そもそもそのように考えるべきでもないでしょう。
しかし、多少の合理性を身につけたがゆえに、自らの過去の過ちや後悔を引っ張り出してきて、大切な人の死との関連性をある意味では「でっち上げる」ことができてしまうのです。
そこにもはや合理性は無いのかもしれませんが、それが人間というものです。
そして、この「一見合理的でもっともらしい繋がり」は、大切な人が亡くなった背景、状況によってさらに増強される場合があります。
・亡くなる直前にその人と大喧嘩をしてしまった
・苦しんでいる様子だったのに、「きっと大丈夫だろう」「また今度なにかしてあげればいいや」と先延ばしにしてしまった
例えばこれらの背景がもしあったとするならば、「自分のせいだ…」という考えに陥るのも無理はない、と思いませんか?
特にそれが幼い子どもだった場合、自分を責めるようになったとしても全く不思議ではないでしょう。
そして、さらにもう一つ、考えてみてください。
そうした “後ろめたい” 背景が存在し、それに加えて、もしも大切な人の死因が「自殺」だったとしたら…?
父親の自殺から学んだこと
死にはいろいろな形がありますが、その中でもひときわ悲劇的なものの1つが「自殺」でしょう。
死に至った本人は文字通り「死ぬほどの」苦しみを味わったわけですが、残された人たちの心にもとりわけ深い傷を残す死の形です。
私のプロフィールまで読んでいただいたコアな方(いるのかな…笑)はご存知かもしれませんが、実は何を隠そうこの私も、医学部生の頃に父親を自殺で亡くしています。
当時私は20歳でしたので、もはや子どもと言える年齢でもありませんでしたが、前述したような大人だからこそ味わう苦しみも多々ありました。
これについては長くなりますので今回は省きますが、当時はとにかく自分を激しく責め続け、人生初の不眠も経験しました。
「分かって欲しい、悩みを共有したい」という気持ちと、「でもどうせ分かってもらえないでしょ」という諦めがせめぎ合い、しばしば「孤独だ」と感じていました。
そんな中で支えになってくれたのは、やはり母親であり、親戚であり、友人といった周りの人たちでした。
信じられないことに彼らのおかげで、救いようがないほど悲しい父親の自死も、今では「経験できてよかった部分もある」とさえ思えるようにもなりました。
私の場合、これをきっかけに精神科医を目指すことに決めたので、いろんな意味で人生のターニングポイントであったと言えます。
また、この経験は自分にとっての「武器」となり、自分の不幸に立ち向かうことにも、患者さんを救うことにも一役買っている、と実感しています。
しかし、こう思えるようになったのは、父親の自殺からそれ相応の時間が経ったからです。
当時の自分には「親父は死んだけど、きっと悪いことばかりじゃないよな〜!」なんて考える余裕は全く持ち合わせていませんでした。
私がこの件から得た非常に価値のある学びは、周囲の存在の大切さと、「時間」が持つ力だったと言えます。
「時間が解決してくれる」は、ただの気休めではない
絶望に打ちひしがれた人を見たとき、伝えるか伝えないかは別として、「時間が解決してくれるよ」というフレーズが頭に浮かぶ人も多いはずです。
このフレーズは、ただの投げやりな気休めの言葉、として受け取られることも少なくありませんが、実際のところどうなのでしょうか。
私自身は前述のように、時間というものの効果を身をもって実感しています。
そして多くの人々の脳裏にこのフレーズが浮かぶということは、それだけ多くの人が「時間が経つことで楽になった何か」を経験しているからこそではないか、とも考えています。
人間は人それぞれ性格も能力も何もかもが違います。
年齢が若いからと言って、大人のほうが子どもよりも優れているとは決して言えません。
そんな中、唯一絶対に、どんな手を使ったとしても子どもが大人に勝てない、大人だけのアドバンテージがあります。
それは、「大人の方が子どもよりも長く生きている」ということです。
考えてみれば当たり前ですが、しかし絶対の、揺るがしようがない事実です。
子どもは、「時が経つ」ということの重要性と、その力をまだ知りません。
知らなくて当然です。それだけの時間を、まだ経験していないのですから。
幼い子どもが誰かを励ますとき、「時間が解決してくれるよ…」と慰めているところを見たことがありませんよね。
たとえ大人からの受け売りとしてそのフレーズを使ったとしても、大人が言うそれとはまるで重みが違ってきます。
子どもが自身の中に時間の重要性を落とし込むためには、文字通りそれだけ多くの時間を過ごさないといけません。
だから子どもが苦しんでいるときには、時間の価値を身をもって知っている、大人たちの助けが必要です。
そしてその助けとはもちろん、安易に「時間が解決してくれるさ」と子どもに伝えることではありません。
「時が経つ」とは「移り変わっていくこと」
「時が経つ」というのは、「全てが今のままではなく、移り変わっていくこと」なのでしょう。
たとえ自覚がなくても、私達は時間の流れ、あらゆる変化の中で生きている。いや、生きざるをえないのです。
たとえその立ち止まっていたとしても、今見ている景色は、1秒前に見ている景色とは似て非なるものです。
悲しみも苦しみも喜びも幸も不幸も、この世界の全ては今のまま留まることなどできず、過去と同じように見えたとしても、全く同じものではありません。
今見ている景色、今この瞬間に抱えている感情が残りの人生で全く変わらない、ということは起こり得ないのです。
人は生きているだけで変化し、何かを経験し、削られながらも何かを得て、知らず識らずのうちに前に進んでいるのです。
そしてそういう意味で言うならば、大人は「子どもが過ごす時間(変化)の一部」として、子どもがこれから体験していく「変化」を、より良いものにする手助けができるはずです。
「時間が解決してくれるよ」という言葉をただ投げるだけでは、何の意味もありません。
大人は、子どもにとっての「時間(変化)そのもの」なのかもしれません。
その言葉を投げかけるのであれば、そこには自分がその役割を果たすのだという意思が伴っているべきです。
こういった視点を持って接するようにすれば、自然と子どもの支えになることができます。
大人が子どもの「変化」の一部となりその背中を押せば、緩やかに穏やかに進んでいく時間の中で、子どもたちは健やかな心を育むことができるでしょう。
そしていつか大人たちのように、「時間」の価値を知るのです。
子どもに限らず、苦しんでいる人を目の当たりにしたとき。
あるいは、自分自身が窮地に立たされたとき。
思い出してください。
時間が持つ力を。変わっていくことの価値を。
そして今この瞬間、あなたも、すべての人達も変わり続けているということを。
…冒頭でも述べたとおり、あっという間に過ぎ去った2022年でした。
しかし誰にとっても、必ず何かしらの変化があり、価値のある時間であっただろうと、敢えて言い切ります。
もちろん、今はそう思えない、という人もいるでしょう。
ぜひ、引き続きコラムに遊びに来てください。
みなさんが少しでも幸せな時間(変化)を体感できるよう、これからもそのお手伝いをさせていただきます。
それでは、また来年のコラムでお会いしましょう。
少し早いですが、皆さん、良いお年を!
※このシリーズは、以下のリンクからご覧になれます。
大切な人を亡くした子どものメンタルケア1【“死”の理解を助ける】
大切な人を亡くした子どものメンタルケア2【大人だけが子どもに手渡せるもの】(←本記事)
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