COLUMNコラム

【子どもから大人までみられるこころの現象】「強迫」について考え続けてみる①

🔶はじめに🔶

こんにちは。カウンセラーの安澤です。

能登半島地震から間もなく2ヶ月になります。

地震や津波の被害に遭われた直後には無かった生活の苦しさや難しさ、そしてやり場のなさが込み上げてくる時期と想像します。

穴水町のある年配の女性が、本当に凄い大変なことが起きたのだから、こればかりは仕方ないので、時間を掛けてやっていきましょう」といった内容を町長に話していたのが印象的でした。

すごい精神力だなと思いました。

未曽有の大震災。報道では「能登半島地震」と言われていますが、能登地方の新聞では「大震災」と言われています。ある大学の名誉教授は被災地の窮状はこれまでにはなく酷い状態と表現していました。やはり半島の先端地域で、インフラも行き届きにくい地域、そして交通網も一瞬で遮断してしまうような未整備な地域となると、防災対策についてどうしても限界が出てしまうのでしょうし、「能登地方は安全」という思い込みがさらに追い打ちを掛けたのかもしれません。

来月、北陸に足を運ぶ予定ですが、何か私自身で出来ることを考え続けていきたいと思います。
ちなみに、前回のコラムは下記からも御覧いただけます。

【学齢期の子どもの心理】【番外編】「ストレス反応とトラウマ反応(心的外傷)」について急遽取り上げてみる

閑話休題。

本来ならば、1月から取り上げようとしていたことについて、述べていきたいと思います。

今回のテーマは「強迫」です。

このテーマは、私自身にも多々当てはまり、ある意味、「自分自身の暴露」になるのだろうと感じています。

おそらく、「あ~、すごい分かる!」と共感する方もいれば、「え?意味分かんないんだけど」と感じる方もいることでしょう。

ある意味、面白いかもしれません。ある意味、引くかもしれません。
はたまた、すごくつまらない、地味なテーマと思う方もいるかもしれません。

このテーマについては、色々なオリエンテーションから論じられますし、様々な考え方や対処法もあり、最終的にはこれだということを言えるほど、まとまらないのも分かっています。
しかしながら、以前から取り上げようと決めていたテーマとなります。

この始まりの文章を通じて、何とか、少しでも「強迫」についての思いを書き切らないとといけないと思うわけです。
それを申し上げたら、毎回、出だしを始め、文章が長くなるのも、少なからず私自身の「強迫」が発動しているわけです。
なぜなら、それをしないと気が済まないのです。
なぜなら、それをしないと心の不安が取り除けないからです。

だからこそ(それだけではないですが)、文章が長くなるわけです。

「強迫」について考えたり、書いたりすると、私自身の「強迫」がさらに強化されます。

こうやって、本題に入らず、何かを呟き続けながら、「強迫」について延々と説明していかないと落ち着かない衝動が迸るわけです。

「切り替えなければ」と分かっていても、切り替え難いわけです。
不安が押し寄せるのです。

しかしながら、これは「コラム」です(強迫の安澤、頑張って切り替えました、ここ褒めるところです、そして自己完結です)。

ここでは、「強迫」ってそもそも何だろうっていうところから、私自身の感覚やエピソードを含めて、
「強迫」について述べていきたいと思います。あくまでコラムですし、あまりに「強迫的」になり過ぎぬよう、かみ砕きながら、徒然と進められたらなあと願望を抱いています。

とは言え、2点、事前に確認させていただきます。細かくて申し訳ありませんが、「強迫」について書くと、やはり強迫的になるのです。

一つには、「強迫」に関連する内容となりますので、一般的に健康レベルでも見受けられる「強迫」的な現象(病理)から、疾患である「強迫症(ICD‐11)/強迫性障害(DSM-Ⅴ)」、「強迫性パーソナリティ障害」についてまで、幅広く自由に取り上げて行けたらと考えています。

もう一つは、これまでのコラムとは違い、淡々と「強迫」について述べていきますので、
どうしたらいいかなどについて、その都度ご紹介するというよりは、ところどころで触れていくような形式になりますことを、ご承知置きくださいm(__)m

「強迫にまつわるあれこれ・・・」

私自身の幼少期、そしてこれまでの言動を振り返ってみると、「強迫的なことをしてきたなあ」
と思うことが多いです。当然、幼少期は、「強迫」という言葉なんて知りもしません。

始めて知ったのは高校生の時でしょうか。

しかし、それ以前から、学校の友人や先生から、「細かい」、「よくこんなに詳しく・・・」、「緻密」、「やり過ぎ」、「丁寧」などと褒めてるのか褒めてないのか分かりませんが、このような表現で私を説明してくれたことがしばしばありました。

共に心理学を学ぶ友人たちからは、「強迫的だね」、「強迫!」などと言われて、「その通り」と思ったことが何度あったでしょうか。

よく「強迫」のことについて話題に挙げる時に、普段この「強迫」を使わない人たちは、「きょうはくって、『脅迫?』」と聞かれます。どちらかというと、「脅迫」の方が、一般的には知られている言葉であり、概念なのかもしれません。

ニュースなどでも脅迫容疑で逮捕される方などが報道される場面を目撃していることが自然と多くなっているはずです。

確かに、あまり「強迫」って言葉は使うことないですよね。人の思考や行為を説明しているもので、その思考や行為に、何かしらの違和感を自分ないし他者が感じなければ、話題には上がらないはずです。「脅迫」と違って。

やはり「強迫」についての文章、まあ長々と、くどく述べていますね、、、申し訳ありませんm(__)m

さて、「強迫」ってどのような意味なのでしょうか。まずはそのことについて、考えてみたいと思います。一応、まとめてみたいと思いますが、やはり分かりやすいのは、具体例だと思います。それについて説明していきます。

その際、大事なことですが、「強迫」の症状によって、本当に辛く苦しむ方も多数いらっしゃいます。かなり辛いんです。
そこは人々によって、誰もが「あ、なんとなく分かる」と思う程度から、全ての人には当てはまらないだろう程度までとか、
大したことはなく生活に支障のない程度から、かなり生活に支障をきたすレベル(強迫性障害)まで、などなど連続線上で考えられるかと思います。

そして、強迫の現象(症状)を体感している人は、「私だけ?」と思って、他の人に言いづらい方も多数いらっしゃるかと思います。私自身もまた、当初はこうやって思うことももちろんありました。
なぜなら・・・

「は?何それ、意味分かんないんだけど」
「変わっているね」
「あの人、何してるんだろうね?おかしいよね」
「バカじゃないの、変だね」
「気にし過ぎじゃないの」
「そんなことを考えていても意味ないよ」

などなど、理解を示してくれないだろうことを予想していたからです。苦笑いや失笑もあるでしょう。もちろん、そういう反応ばかりではないことは後々分かるのですが。

そして、程度の差こそあれ、強迫の方は、誰よりも自分自身が、こうやって「違和感」を感じていることが多いのではないでしょうか。だからこそ、辛いし、言いづらいし、不安だけが募っていくのかなと思います。

これは、「強迫」の現象や症状に限らず、どういった現象や症状でも、「自分にはあるが他者にないもの」だと考えたら、少なからず、「他の人には言いづらい、言いたくない」という気持ちが生まれるでしょう。

「強迫」は何しろ大体の「強迫」について、自分自身でも違和感を抱いているので、その思いは強いでしょう。だからこそ、「それだけでもないんだよ」ということを、折に触れられたらと思います。

追々、最も大切なこととして、まとめられたらと思いますが、専門家としてというよりも、実体験の感覚から申し上げさせていただくと、「強迫」を取り除くことは難しいなと感じています。ただ、薄~くすることは出来るのではないかなと感じています。

専門的な対処法は様々ですが、それでも結論は2つかなと考えています。一つは、「同じことを分かち合える人たちと共有すること」、もう一つは、「笑いも含めて、ホッとして、別にこれでもいいんだと思えるようになること」なんだろうなと思っています。また、追々、このことについても、詳しくまとめていきます。

いや~、本当に長い。本でも、論文でもないのに。

細かく書きたくなるようになっている性分は、やはり強迫の資質があるんだろうなと感じています。
ちなみに、今のところ苦しくはないです。
なぜなら、リフレーミングで思い直しをしてみたり、違うことを考えてみたりしているからです。そして、何かと笑いにもっていこうと考えているからです。これも軽いレベルでの対処法になりうるのかもしれません。そういう意味では、親和的・・・慣れたと思っていいのでしょうか…。

ここでは、私自身のエピソードを見て、「え!」、「何それ!」、「意味分かんない(笑)」、「うわ~、引く」などなど思っていただいたり、他方で、「分かる分かる!」、「同じ人がいた!」、「分かってくれてすごいホッとする!」、「別にいいんだ~」、「気が楽になった」と思っていただいたりしてくれたら、何よりです。

大事なことは、何度もコラムの中で、繰り返し書き留めようと思います。
「反芻」なのかもしれませんが。

それでは、本題に入っていきます。漸く。

そもそも強迫って何……

「強迫観念」や「強迫行為」というものが、「強迫」についてまずは語られることなのかもしれませんが、それ以前に、そもそも「強迫」ってどういう意味なんでしょうか。

もともと「強迫」とは、ドイツ語の“Zwang“の翻訳のようです。
広辞苑によれば、以下の通りになります(図-1)

図-1 「強迫」とは・・・(広辞苑第7版)

こう見ると、「脅迫」とも関係しているような意味合いでもありますね。

私個人的には、この「強迫」の言葉に始めて触れた時、「強く迫る」という言葉ですから、なんとなく共感出来ました。私の中で、「差し迫り感」というのが感覚としてあるので、言葉としては、しっくりきていました。

広辞苑の定義上にある③の医学的な語義が、このコラムでも取り上げる「強迫」の意味となります。

松永(2002)は、「強迫」について、「自分にとっては無意味ないし不合理と判断される思考、欲動、あるいは行動が支配的になる状態」と述べています。

分かりやすく言い換えると、自分自身では「意味ないのになあ」とか「おかしいなあ」と思いながらも、頭の中で浮かんでしまう考え方や感じ方、~したいという思い、そして、それらによって生じる行動によって、自分自身がコントロールされてしまう状態なのだと思います。

ここでピンとくる方は、なんとなく「強迫」に親しみというと語弊があるかもしれませんが、理解できる感覚を持ち得ているかもしれません。

私自身は、よく分かりますし、この感覚はたくさんあります。

例えを挙げると(今後も例示する内容ですが)、「何度も確認してしまう」ことが有名ですよね。

外出する時に、明らかにドアに鍵を掛けたにも関わらず、「鍵が掛かっていないのではないか」「鍵が掛かっていないと泥棒に入られるかもしれない」といった考えが過ります。そして、その都度、ドアの鍵が閉まっているかどうかをガチャガチャしたり、鍵を掛け直したりする行動を起こします。

私自身のコラムとして相応しくするために、私自身の「何度も確認してしまう」例えを挙げます。

数多くある「強迫」的な振る舞いの1つ目です。

同じような内容で言うと、エアコンのスイッチです。家でも職場でもどんなところでも行いますが、エアコンがしっかりと節電されているかを何度も確認します。もちろん、リモコンのスイッチを「ピッ」って押してます。なので、電源ランプも消えます。通常ならば、その段階で終わりでしょう。

しかし、私の中では、それでは終わりません。不安です。何が不安なのかは以下の通りです。

・リモコンスイッチを押してランプは消えているが、本当にスイッチを押したのかどうか、またついてしまうのではないかと思ってしまう(そんなことはありませんが)。

・電源ランプは消えているが、まだエアコンのウインドウが動いており、そのままウインドウが動き続けるのではないかと思ってしまう(そんなことはありませんが)。

・エアコンが作動している音(ゴーっという音)が聞こえるため、ずっとその音が鳴り続けてしまうのではないかと思ってしまう(そんなことはありませんが)。

・その場から去った後に、エアコンが自動で作動してしまうのではないかと思ってしまう(そんなことはありませんが)。

これらの不合理な考えから、再度電源を点けて、ランプが消えるまで、ウインドウが閉じるまで、音がなくなるまでを再度確認することがあります。そして、雑念が入らずに、確実に確認が出来たと思えて、その一連の流れは終了となります。
なお、酷い状態だと、この一連の流れに時間を要する訳ですが、現状ではそこまで時間を要していない状態であることも付言はしておきます。

こうやって、自分で書いていて、恥ずかしい部分もありながらも、共感していただける方がいれば、本望です。

🔶おわりに🔶

今回は、「強迫って何だろう??」について書いてみました。
まさかの「強迫」という概念を書いただけで6000字を超えてしまいました(笑)。

拙文というのも多分にありますし、同じことを回りくどく書いていることも一因ですが、
やはり「書かないと」とか「これでいいのか」とかあれこれ強迫的に思い巡らされている訳です。

それでも、何となく「こんな感じか」と感じていただければ幸いです。
一応、最も大事なことも触れたようには思います(まとめはいずれやりますので)。
地味ながら、暫くは「強迫」について述べていきますので、宜しくお願い致しますm(__)m

ぜひ、何かの「気づき」の足しになれれば幸いです。

それでは、また次回に!!

🔶参考文献🔶

●新村 出編 2018 広辞苑(第7版)岩波書店
●岡崎祐士,青木省三,宮岡等(監) 2002 こころの科学104 強迫 日本評論

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親子関係の問題、お子様とのかかわり方、育児、DVのほか、発達段階(幼児期、児童期、思春期、青年期、壮年期)、発達面の課題、非行、ひきこもり、ストレス・不安・躁うつ・強迫・依存など様々な精神症状に関すること、自己理解、対人スキルといった個人や関係性に関わる内容、不登校、いじめ、特別支援、高校への進路支援など学校と関連する内容など、様々なご相談に対応させていただきます。

昨今、ポスト・コロナの時期において、閉鎖的な風潮が今だ続いている中、お1人に悩まれ続け、辛い思いをされている方も多くおられると思いますが、1人で抱え込まず、誰かに吐きだして、少し軽くなったり、気持ちに余裕が生まれたりしていくことも時には必要かもしれません。

人それぞれ必ずご自身で考える力は備えられています。しかし、精神的に余裕がない時には、その力を発揮することが難しくなります。ちょっとだけ、ゆっくり、じっくり、のんびりと、呟いたり、ご自身と見つめ合ったり、共有したりすると、ほっこりと、リラックス出来て、ご自身の感じる力や考える力が身についてくれれば何よりです。

何か思うところがありましたら、いつでもご相談をお受け致します。

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過去の【学齢期の子どもと心理】コラム by 安澤 好秀


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Writing by 安澤 好秀

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